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ショート・メッセージ集 (バックナンバー)

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2002年 5月29日
2002年 7月18日
〜聖書と失敗〜 (ヨハネの手紙第T、1章8〜9節)
初めの失敗 −罪− (創世記2章16〜17節、3章1〜7節)
最初の殺人・・・弟殺し (創世記4章1〜16節)
バベルの塔 −混乱の町の原因− (創世記11章1〜9節)
妻に責任を被せる夫 (創世記12章10〜20節、他)
溺愛の“刈り取り”と解決 (創世記25章19節〜33章)

自負心の挫折 −モーセの場合− (出エジプト記2章11〜15節)

ヘロデの嬰児殺し −クリスマスの闇と光− (マタイの福音書2章1〜19節)
イスラエル最初の王サウルの失敗 (サムエル記 第T 9章〜15章)
ダビデ王の失敗 −姦淫と殺人− (サムエル記 第U 11章1〜27節)
ダビデ王の失敗 −自分に甘く、人に厳しい− (サムエル記 第U 12章1〜15節)
好色の悲惨 −ソロモンの失敗− (列王記 第T 11章1〜13節)
恐妻家アハブの失敗 (列王記 第T 16章29節〜22章29節)

 
月日 内容
2001年 7月 1日 〜聖書と失敗〜 (ヨハネの手紙第T、1章8〜9節)

 大学で機械設計を教えている畑村洋太郎さんの『失敗学のすすめ』(講談社)のプロローグのところを2,3紹介します。

 「創造的な設計をするためには、多くの失敗が必要だ。これは、なにも設計者の世界だけの話ではありません。営業企画やイベント企画‥‥あらゆる創造的な仕事に共通する言葉です。
 『痛い話』(失敗)というのは『成功話』よりずっとよく聞き手の頭にも入るものです。が、残念なことに失敗そのものに『不必要なもの』『隠すべきもの』といった負のイメージが常につきまとっています。そのせいか、いまの日本には失敗体験が情報として積極的に伝達されることがほとんどありません。」

 ところが『聖書』は失敗の宝庫です。『聖書』などと「聖」があるために「聖なる人」の成功ばかり記されていると思われがちです。しかし、聖書は人間の失敗−神と人との関係ではそれを罪という−がこれでもかこれでもかと続くのです。『失敗学のすすめ』のバイブルとさえ言えるでしょう。
 それは、私たち人間が自らに与えられた生を真に創造的に生きるためにこうなればまずくなるという神から与えられたいわば陰の情報伝達なのです。これから少しずつ聖書にある失敗を紹介し、そこから創造的生を見出してくださることを願っています。
 <もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、心理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネの手紙第T、1章8〜9章)>

 もし、こんな内容からは何も創造的人生は始まらないとすれば、私たちのホーム・ページの失敗です。そうであれば私たちの失敗から何かの創造的営みを始めてくだされば望外の喜びです(いや、“望内?”かも)
 
2001年 7月22日 初めの失敗 −罪− (創世記2章16〜17節、3章1〜7節)

私たち日本人の文化は、“恥の文化”とか“初めと終わりの無いいわば創世記と黙示録のない文化”と言われます(「日本文化のかくれた形」岩波書店)。他方、聖書は、創世記から黙示録まであり、人間の歴史に初まりがあり終わりがあることを語ります。そして人間の最初の失敗 −罪− とその結果である死と悲惨を語っています。多くの方がご存知のように、人間が、神が食べてはならないと語った木の実を食べる失敗です。

人間がどのように失敗したか、聖書のことばを見て、その本質を知ることにします。

神:あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世記2章16−17節)
蛇:あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。(創世記3章1節)
女:・・・神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」と仰せになりました。(創世記3章3節)
蛇:あなたがたは決して死にません。(創世記3章4節)

下線に注意して下さい。神の命令に少しずつ変化や追加や不信が加えられて、最終的には「必ず死ぬ」から「決して死にません」と変わってしまったのです。それで女と男は食べてはならない木の実を食べる失敗を犯したのです。失敗の原因は、神の命令に対する不信と変質・追加です。失敗 −罪− の本質は神の命令に背いて行動することです。失敗の結果は、エデンの園という人間に与えられた本来の喜びからの追放という死です。

この人間の初めの失敗、そしてすべての人間が持つこの本質とその結果から解放し、創造された人間本来への回復が、聖書の示す救いなのです。

2001年 8月 5日 最初の殺人・・・弟殺し (創世記4章1〜16節)

 かつては家庭争議と言われましたが、最近は家庭内暴力と言われます。毎日のように夫婦、親子、兄弟間の暴力沙汰がマスコミを賑わしています。 それにふれると決して自分の家庭でも、いや自分自身も同じことをする可能性があることに気づき、戦慄しない人がいるでしょうか。 現代、問題になっている少子化の要因の一つは、この兄弟殺しの恐怖ではないかとさえ思います。

 実は、家庭内暴力そして兄弟殺しは、現代だから起きるのではなく、人間の歴史において最初の殺人として聖書は記録しています。 アダムとエバから生まれた兄弟の兄カインが弟アベルを殺したのです。その経緯が創世記4章1節から8節に実にリアルに記されています。 徐々にカインがアベルに対する殺意を抱き実行に移す様子が目に浮かぶようです。 しかし、聖書は、弟殺しのリアリティーは、 両親のアダムとエバが神のことばに背き自分を神とし責任を互いになすり合う罪の結果としてのリアリティーであることを語っているのを忘れてはなりません。

 結局、罪−神のことばに従わないで自分を神とすること−は、「神を殺す」ことです(勿論、それで神が死ぬことはなく、自分が死ぬのですが)。 そして神を殺して自分が生きるという結果は、隣人である弟殺しになるのです。弟を殺したカインは「さまよい歩くさすらい人」となり、 “咎は大きすぎて担いきれなく”ますますさまようのです。

 カインの咎は私たち人間一人一人の姿です。表面的にはさまよっていなくても本当の人間としてはさまよっている私たちを、 そこから連れ戻して下さるのが救い主キリストなのです。

2001年 8月19日 バベルの塔 −混乱の町の原因− (創世記11章1〜9節)

 日本ウィクリフ聖書翻訳協会の資料によると、今日までに約2200言語に聖書は翻訳され、約3000言語が翻訳されていません。

 つまり、世界には約5200の言語があることになります。けれども聖書によれば、「全地は一つのことば、一つの話しことば」(創世記11章1節)でした。

 もし世界のことばが一つであれば外国語を学んだり、聖書翻訳をしなくてもよい訳です。なにゆえ世界には多くの言語があるのでしょうか。

 実は技術革新という成功が原因なのです。石と粘土の代わりに、れんがとアスファルトを使う建築技術の進歩により、天に届くような塔の町を建て名をあげようと豪語した結果なのです(創世記11章3〜4節)。つまり、自分たちは神のような存在であることを顕示し、自らを賛美しようとしたのです。

 しかし、神はご自身だけが神であり、人間は人間に過ぎないということを知るように、1つだった言語を互いに理解できない言葉を話すようにされたのです。それで人々は混乱し、塔の町は「バベル(混乱)の塔と」呼ばれたのです。技術革新の成功が、言語が多くなり理解し合えない原因です。

 現在進行中のIT革命で全世界は相互理解が進むでしょうか。もし人間がIT革命で神と等しいと思えば、ITによって理解が進むより、逆に理解し合えず、人の数だけ言語ができるという大混乱になる危険があるでしょう。

 では、人間がもう一度理解し合えることばを回復する可能性はあるのでしょうか。あります。新約聖書「使徒の働き」2章にはイエス様の弟子たちが、それまで知らなかった言葉を話し出し、いろいろな言語の人と話し合う出来事があります。これは、聖霊が弟子たちに満ちて実現したのです。これこそバベルの塔の混乱を回復する出来事なのです。

 私たちも聖霊に満たされる時、どうしても理解できなかった友人や夫婦や兄弟も、互いに理解し、通じ合う者とされるのです。

2001年 9月16日 妻に責任を被せる夫 (創世記12章10〜20節、他)

 かなり旧聞に属し恐縮ですが、政治家や官僚が増収賄の罪に問われたとき「妻がやったことで、私は関係ありません」と言って話題になったことを多くの方は覚えているでしょう。「妻が…」「妻が…」と流行語にまでなりましたから。

 自分の責任を妻に被せるなど夫の風上にも置けないとも思いつつも、自らの中にも密んでいることを知らされます。いや、実は聖書には、最もイスラエル人が民族の先祖として尊敬し、信仰の父と模範にするアブラハムもまた、妻サラに大変な責任を被せているのです。

 アブラハムとサラがエジプトに難を逃れて行ったとき、妻に「私の妹だ」と言ってくれと頼みます。そして妻をエジプト王パロに差し出して、自分を守ろうとするのです。その時は危機一髪のところ、神のあわれみにより真実がパロに知られ事無きに済みました(創世記12章10〜20節)。しかし、事もあろうにその後、ゲラルの王アビメレクにも妻サラを妹だと言わせます(創世記20章1〜7節)。さらにアブラハム夫婦の念願の息子イサクも、リベカを妻とした後、両親同様に妻リベカを妹だと言って自分を守ろうとしたのです。アブラハムもイサクも一方的な神の御手により、夫婦の関係を守られたのです。

 この夫(男)の無責任さは、アダムが罪を犯した時、アダムが神に問われエバに責任を被せた時からです。やはりアブラハムもイサクも、そして現代の私たちもアダムの子孫だということです。

 私たちは夫婦として互いに愛し尊敬し合えるでしょうか。アダムの裔として人となって罪に打ち勝ってくださったイエス・キリストが、私たちの永遠の夫として私たちを清めてくださいます。キリストが私たちの夫として導いていただく時、私たちは夫として、妻として責任を果たせるのです。

2001年10月 7日 溺愛の“刈り取り”と解決 (創世記25章19節〜33章)

 母親の溺愛は今に始まったことではなく、イスラエル民族の祖先であるヤコブ(この人が後にイスラエルと呼ばれるようになる)の母リベカの時からありました。

 妻リベカと夫イサクには長い間子供がなく、祈りの答えとして神からエサウとヤコブという双子の息子が与えられました。ところが、夫イサクは兄エサウを愛し、妻リベカは弟ヤコブを愛したと聖書は記しています(創世記25章28節)。そもそも、夫は兄を、妻は弟を愛するということが混乱の始まりです。

 そんな時、夫イサクが兄息子を祝福しようとしているのを知った妻リベカは、弟息子に兄エサウのように偽装させて、まんまと夫イサクの祝福を獲得するのです。しかし、騙されたことを知った兄エサウは弟ヤコブを殺そうと企みます。母リベカはそれを知って息子2人が殺し合い、2人とも失うことを恐れ、溺愛する弟息子ヤコブを遠く自分の出身地に避難させるのです。今風にいえば難民生活です。

 ヤコブは兄の怒りから逃れたのですが、約20年間、おじである、母リベカの兄に騙されて、いわば“ただ働き”をさせられてしまうのです。

 リベカは溺愛する弟息子のために、夫や兄息子を騙すのですが、その弟息子はおじに騙されるといういわば“刈り取り”をしなければならなかったのです。人を騙したり、神への罪によって真の幸福を得ようとしても、結局はその“刈り取り”をしなければならないのです。

 しかし、慈愛に富む全能の神はそのような、人間的にいえば溺愛や欺きをも良きに変えて下さる方です。

 “あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。”(創世記50章20節)

2001年10月31日 自負心の挫折 −モーセの場合− (出エジプト記2章11〜15節)

イスラエル民族の中で忘れられない人物と言えば、アブラハム、モーセ、サムエル、ダビデ等数多く知られています。特に映画「十戒」で知られているモーセは、偉大な指導者のイメージが強いでしょう。エジプトで苦しむ同胞数百万人を、絶対君主パロと巨大な軍隊から解放するために用いられたモーセは、並大抵の意志ではないと想像するのは当然でしょう。

確かにモーセは、勇猛果敢な青年でした。ヘブル人の子どもとして生まれ、パロ家の王女に拾われ育てられました。成人して自らの出目と同胞の悲惨を知るにつけ、自分の力で同胞を救おうと情熱を燃やしました。折しも、同胞を苦しめているエジプト人を殺して隠したのです。次の日、同胞同志が争っている場に居合わせ、「なぜ、自分の仲間を打つのか」(出エジプト記2章13節)と責めると、仲直りするどころか、モーセの同胞愛の自負心は受け入れられず、逆にエジプト人殺人をパロにばらされることになり、モーセは逃亡生活に入らなければならなくなったのです。

モーセは、自分の同胞愛で同胞を救えるとの自負心がありましたが、同胞から拒絶されるという挫折を深く味わったのです。数十年後、モーセは80才の時、神からイスラエルを救うために呼び出され、「私はいったい何者なのでしょう」(出エジプト記3章11節)、「ああ主よ。どうかほかの人を遣わして下さい」(出エジプト記4章13節)と言うような真に謙遜な人に変えられていました。聖書の中に「モーセという人は、地上の誰にもまさって謙遜であった」(民数記12章3節)とある程です。彼は、自分の力とか同胞愛の自負心の挫折を通し、謙遜にされ、神は謙遜な彼を用いて、御業をなさったのです。

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5章5節)(注:"柔和な者"は"へりくだった者"という意味もあります)

2001年12月12日 ヘロデの嬰児殺し −クリスマスの闇と光− (マタイの福音書2章1〜19節)

アメリカがアフガンで北部同盟を使って新しい政府を立てようとしています。それと同じではなかったかも知れませんが、2千年前イエス様がパレスチナのベツレヘムで生まれた時代、ローマの支配者オクタヴィアヌスは、ユダヤ人のハスモン王朝を滅ぼしたエドム人へロデに「ユダヤ人の王」という称号を与え、いわば“傀儡王”としていました。このヘロデは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイ2章2節)を聞き、自分の立場が奪われるとの恐怖から、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を殺させたのです。

クリスマスと言えば、美しいキャロル、色鮮やかなイルミネーション、ホテルでの豪華なディナー等を連想するでしょう。しかし、実際にはイエスは汚物と悪臭漂う家畜小屋で生まれ、飼葉桶がベットでした。美しいキャロルではなく家畜の鳴き声とヘロデの嬰児(みどりご)殺しによる子供たちや家族の「嘆き叫ぶ声」(マタイ2章18節)が響いたのです。

この最初のクリスマスの悲惨さは、人間が自分を王とする、自己中心の傀儡王であり続ける時の悲惨さです。自己を王とする自己中心を守ろうとする時、他者を殺すことになる悲惨です。しかも実際には自分を滅ぼすのです。このヘロデもその後すぐに死にました。(B.C.4年)

聖書に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブの手紙1章15節)とあります。ですからクリスマスは美味しいケーキを食べるのもいいですが、それ以上に自己中心<罪>の悲惨さを知る時でもあります。ここにクリスマスの闇があります。

他方、真に神であり、世界の王である方が、その王冠を捨てて貧しい赤子の姿をとって来て下さり、自己中心の傀儡王であり続ける時の悲惨さから救い出して下さるのです。ここにクリスマスの光があります。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6章23節)

2002年 1月30日
イスラエル最初の王サウルの失敗 (サムエル記 第T 9章〜15章)

イスラエルの王と言えばダビデ、ソロモンが有名ですが、最初の王はサウルです。時代は特定できていませんが、BC1000年代の後半であることは認められています。何歳で王となり、何年間王であったかについては「30歳で王となり、12年間イスラエルの王であった」(サムエル記 第T 13章1節)とありますが、数字のない写本もあり分からないところもあります。

サウルは「美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった」(サムエル記 第T 9章2節)とあります。また、王に指名されたとき「私の家族は・・・どの家族よりも、つまらないものではありませんか」(サムエル記 第T 9章21節)と言い、「荷物の間に隠れている」(サムエル記 第T 10章22節)謙遜そうで、気弱な人でした。

彼は王即位直後2つの失敗をしました。最初の失敗は「あなたは私が着くまで7日間、そこで待たなければなりません」(サムエル記 第T 10章8節)との命令に対して、99%待っていながら待ち切れず、してはならないことをしたのです。
二つ目の失敗は、戦利品を全て神の前に献げる(これを聖絶と言う)よう命じられましたが、最も良いものを惜しんで自分たちのものにし、値打ちのないものだけを聖絶したのです(サムエル記 第T 15章9節)

彼の失敗の根本は、
(1) 神を恐れ尊ぶよりも、人がどう思うかを恐れたこと
(2) 神の命令は分かっていても自分が良いと思うことに従ったこと
(3) 最後の1%の不従順が100%の不従順だと分かっていなかったこと
でしょう。
現代という時代に生きる私たちも同じ失敗を神の前に犯し易いことを覚え、神を畏れ、自分の思いではなく神のことばに、そして最後の1%のところまで神に従って歩みたいものです。

「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(サムエル記 第T 15章22節)

2002年 2月20日
ダビデ王の失敗 −姦淫と殺人− (サムエル記 第U 11章1〜27節)

イスラエルの王の中で最も尊敬されているダビデ王は、羊飼いをしていた少年時代、巨人ゴリヤテを打ち、先王サウルに召し抱えられました。その後サウルは、ダビデへの嫉妬からダビデを殺そうとしました。しかし、神はサウル王の後にダビデを王に立てたのです。(BC1013−973)

ただ神の恵みによって王とされたダビデでしたが、前線にいるウリヤ将軍の妻を寝取り、それを隠すためウリヤ将軍を敵の手で殺す策を弄したのです。幼い時から神に従ったあのダビデが罪に陥った状況から、人間が罪の誘惑に陥るときを考えてみましょう。

(1)サムエル記 第U 11章1節
「ダビデは、・・・と・・・とイスラエルの全軍とを戦いに出した。 ・・・しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。」
→戦うべき時に、他の者に戦わせ、自分はぬくぬくとした生活をしているとき。

(2)サムエル記 第U 11章2節
「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、・・・」
→生活のリズムが乱れているとき。

(3)サムエル記 第U 11章2節
「ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。」
→罪は目から入る。情欲を抱いて女を見た時、姦淫を犯しているのである。

(4)サムエル記 第U 11章15節
「彼が打たれて死ぬようにせよ。」
→一つの罪は次々と新たな罪をつくり出し、ウリヤ将軍を殺すまで拡大していく。

(5)サムエル記 第U 11章27節
「ダビデは・・・彼女を自分の家に迎え入れた。・・・しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。」
→ダビデは完全犯罪よろしく、ウリヤを殺し、その妻を召し入れた。しかしそれは主の前に大きな罪だった。罪の本当の恐ろしさは、ある時うまく自分が計画したとおりになることである。また、罪は、人生で最も盛んだったり、喜びに満ちていたり、成功したと思う時、襲ってくる。国(日本やアメリカ)においても同じである。そして何よりも罪は神の前に明らかであることを覚えさせられる。

「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」(詩篇51章4節)

2002年 4月27日 ダビデ王の失敗 −自分に甘く、人に厳しい− (サムエル記 第U 12章1〜15節)

さて、ダビデ王は部下ウリヤの妻を寝取り、その罪を隠蔽するために敵の手を使ってウリヤを殺し、完全犯罪に成功したと思いました。

そんなダビデに預言者ナタンが「富んだ者が、貧しい者の唯一の財産である雌の子羊を奪った」という話をしました。するとダビデは「そんなことをした男は死刑だ」と烈火の如く叫んだのです。ダビデはその男こそダビデ自身だと気付きませんでした。

しかし、ダビデは姦淫と殺人後のことを次のように述懐しています。
「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、
私の骨々は疲れ果てました。
それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、
私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」(詩篇32篇3〜4節)

このダビデの姿から、人は自分に罪があり、喜びや満足がないとき他者に厳しくなること、また他者を厳しく裁くのは自分に罪がない証明ではなく、自分の罪に責められている証明である等が分かります。

さて、自分に甘く他者に厳しいダビデに対し、預言者ナタンは「あなたがその男です」(サムエル記 第U 12章7節)と単刀直入に応じました。「四知」で知られることわざ「天知る 地知る 我知る 人知る」のとおり、神は全てを知っておられ、ダビデにそれを呼び醒ましてくださったのです。
「あなたがその男です」は厳しいことばですが、これこそ神の愛です。

ダビデは、ナタンの指摘によって自分の罪に目覚め、「私は主に対して罪を犯した」(サムエル記 第U 12章13節)と素直かつ全面的に罪を告白したのです。弁解したり開き直ったりせず、人に対する姦淫や殺人も本質的に「主に対する罪」と御前に告白したのです。全面的な罪の告白は、全面的な主の赦しと愛の玄関です。
ダビデはそれを次のようにうたいました。
『「私のそむきの罪を告白しよう。」
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。』(詩篇32篇5節)

新約聖書では次のようにあります。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙 第T 1章9節)

2002年 5月29日 好色の悲惨 −ソロモンの失敗− (列王記 第T 11章1〜13節)

「英雄、色を好む」のことばの如く、イスラエルの王ソロモンは好色によって大失敗をしました。ソロモンはダビデの後を継いで40年間全イスラエルの王でした。彼は愛と恵みに満ちた主なる神様の宮を7年かけて、宮殿を13年かけて完成しました。さらに彼は知恵の人であり、3000の箴言(格言)と1500首の歌を作ったのです。(列王記 第T 4章32節)

ところがソロモンはエジプトの王パロの娘を妻とし、その他に多くの外国人女性を妃・そばめとしました。700人の妃と300人のそばめがいたのです。

ソロモンの好色のもたらしたものは小さくはありませんでした。
第1に、彼の心が他の神々へ向いたことです。つまり、偶像礼拝へと彼を変えたのです。ソロモンのような好色や姦淫、つまり夫婦関係の罪は偶像礼拝につながります。
第2に、「主の目の前に悪を行い、父ダビデのようには、主に従い通さなかった」(列王記 第T 11章6節)とあるように、神の目の前で神に従わない罪を犯すことです。
第3には、神から「わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える」(列王記 第T 11章11節)とあるように、栄華を究めたイスラエルが分裂し、互いに争い合うものになったのです。
好色は平和を破り争いをつくります。つまり、好色(姦淫)は、(1)神との平和を破り、(2)家庭の平和を(“今”だけでなく続く歴史をも)破り、(3)共同体(国)の平和を破るという最も破壊的なものなのです。ですから、好色に勝てない政治家によって世界の平和は実現しません。

知恵の人でもあったソロモンも勝てなかった肉の欲望(好色)に打ち勝つことは、誰もできないのです。パウロが言っているように人は無力です。ただ主イエス様が、このような弱い罪人を救うために十字架にかかり、3日目に復活し、罪に勝利してくださったのです。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ人への手紙 第7章24〜25節)

2002年 7月18日 恐妻家アハブの失敗 (列王記 第T 16章29節〜22章29節)

昔は亭主関白が普通で、 嚊天下だとか恐妻家と言われる夫婦は稀でした。しかし現在は、昔から見れば、大部分が恐妻家で、もう恐妻家という語は死後に近いでしょう。

さて、今から約2850年以上前に、南北に分裂した北王国イスラエルにアハブという王がいました。彼は統一時代から南北朝時代を含めて、歴代の王達の中でもワースト5に入るような王でした。偶像礼拝をする娘イザベルをめとり、偶像バアルの祭壇を築き、アシュラ像を造り、それらの偶像に仕えて拝んだりしました。さらに、妻イザベルが、「真の神の預言者」を殺すことを黙認したり、バアルの預言者を滅ぼした真の神の預言者であるエリヤに、「あすの今ごろまでにあなたのいのちはないぞ」と脅すことを許したりしたのです。
さらにアハズは、自分の欲しいと思ったぶどう畑を市民が譲渡してくれなかったとき、“ふて寝”をしたのです。それを知った妻イザベルは、「この私がぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう」(列王記 第T 21章7節)と言って、ぶどう畑の所有者をだまして殺し、ぶどう畑を手に入れたのです。

しかし、アハブとイザベル夫婦の結末は悲惨であり、70人の子供を含め根絶やしにされたのです(列王記 第U 10章17節)。不正や自己中心から得たものは、最後には人を助けたり救ったりしないのです。このアハブの大失敗は、現代世界の夫婦への警鐘です。不正や神の聖に背いた方法で得た富や地位や知識は、人々を救えず、逆に滅ぼす原因になるということです。貧しくても、また自分の願い通りにいかなくても、「神を第一にする夫婦、社会」こそ幸いであり、人々を生かすのです。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6章33節)

細川牧師のスペシャルサイン    

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